「食卓の向こう側」 応援団ブログ

西日本新聞「食卓の向こう側」応援団。世の中の「くらし」を明るくします。

【福岡・宗像市】森 千鶴子(もり・ちづこ)フリーライター

得意分野:

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■プロフィル
◇出身:福岡県
◇生年:1968年
◇現住所:福岡県
◇主な経歴:
國學院大学卒業後、広告業界に入り、コピーライターとなる
1997年に福岡へUターン後は、農・漁・食の分野の取材、執筆をしながら、九州各地の地域作りにも関わる
大分県竹田市中津江村、福岡県宗像市などの「家庭料理大集合」「食の文化祭」アドバイザー
『増刊現代農業』記者
農山漁村を歩き、食を核とした地域づくりや生活文化の記録に取り組んでいる

■主な著書・雑誌記事等
『竹田読本~まちとむら、農と食を結ぶ~』 西日本新聞社
『大人のための食育入門』(『増刊現代農業』)
『小さなむらの「希望」を旅する』(『増刊現代農業』)
『自然と人間を結ぶ』
季刊『うかたま』 以上、農文協
ほかに執筆

■お話のジャンル・領域
<食>食文化(日本)、食生活
<農>農的ライフスタイル、朝市・産直・農業の6次産業化、地域資源、生活文化・農村文化、地元学
<食農教育>食育

■問い合わせ先
森の新聞 http://blog.livedoor.jp/morichi2005/

 

農山漁村の力を引き出す食の地元学。
 「食の文化祭」「家庭料理大集合」

宮城県宮崎町(加美町)に学んだ「食の文化祭」の精神

 東京で6年間コピーライターとして働き、10年前に郷里の福岡県宗像市にUターンした。学生時代も含め約10年間の都市生活を経て、農家の長女として生まれた自分にできることを考えた結果、私は「農家や農村の姿を書きたい」と思った。きっかけは、熊本は菊池養生園での体験、そしてそこで出会った西日本新聞編集委員、佐藤弘記者からの励ましだった。「百姓はしきらんでも、書いて支えることはできる。一緒にやろう」。氏の紹介で、増刊現代農業の仕事をもらった。Uターンして3年目のことである。

 取材で九州の、主に中山間地の村々を訪れて驚いた。過疎高齢化のなどなんのその、そこには都市では失われつつある「結い」があり、コンビニもスーパーもなくても生きていける自給の経済があり、受け継ぎ守る祭りがあり、ものづくりの技があった。時を超えて受け継ぐ地に足のついた時間があった。元気なじいちゃん、ばあちゃんが、おはぎや漬物、様々な手料理でもてなしてくれた。村の暮らしがもっともっと知りたくなり、私は仕事で縁のできた大分県中津江村に居を構えた。ここを拠点に、中津江村をはじめ、大分県竹田市などで印刷物の制作や、交流イベントの企画、地域づくりのお手伝いをすることとなる。

 駆け出しのフリー記者の私にとって、増刊現代農業は、記事を書く場だけでなく、各地の取り組みや農業を学ぶ場でもあった。そして99年、同誌で、宮城県宮崎町(現加美町)の「食の文化祭」を知った。

 ふだん着の食事をもち寄って、ズラリと並べ、足下の食事を見つめ直してみる。食を通じて人々が出会い、語らいがはじまり、家々の知恵が行き交う。その取り組みに深く共感した。

 大分県竹田市で、竹田の大自然や農村の食を生かした催しができないだろうか、と相談を受けたとき、私はこの「食の文化祭」を紹介した。すると「うちでもぜひやってみたい」ということになり、私は大慌てで増刊号編集主幹の甲斐良治さんに頼み、アドバイザーである、民俗研究家の結城登美雄さんと宮崎町商工会に連絡をとってもらって、現地を見に行った。「九州から来たもの好きがおる」と歓迎してもらい、「自分たちの取り組みが九州で役に立つのなら、何でも教える」と、運営のイロハを教えてもらった。何よりも勇気づけられたのは、食の文化祭当日、お皿を持って集まってくる人々の、楽しそうな顔。山、川、畑からやってきた豊かな食を囲んでの賑やかな語らい…。我が村のあたりまえの暮らし、普段着の家庭料理を誇ることのできる人々の姿だった。「最初はあんまり無理しないで。料理の数は関係ない。この催しは打ち上げ花火ではないから、地道に続けていくことが大切なんだよ」商工会事務局長の橋本さんの言葉を胸に、北の元気を九州に持ち帰った。

大分県竹田市 「竹田の家庭料理大集合」

写真 2002年12月、市内の空き店舗を会場に、「竹田の家庭料理大集合」が開催された。中心となったのは、食生活推進協議会しらゆり会のメンバーや、町づくりグループ、加工所のみなさん。市内の飲食店や、保育園、給食調理場など、食に関わる様々な人々が集い、家庭料理、加工品、お菓子など200皿が並んだ。展示のあとは試食会。おいしい料理を囲んで、賑やかな食談義だ。「楽しかったね」「来年もまたやろうね」と誓い合い、人々は空になったお皿を笑顔で引き上げていった。

 翌年、この「大集合」がまいた種が、あちこちで芽吹きはじめる。  竹田の給食調理場では、会場で熱心にメモを取っていた栄養士の藤澤佐知子さんが、当日学んだ郷土料理を給食のメニューに取り入れた。

 竹田の城下町では「こうじ仲間の集い」が発足。麹を使った料理のもち寄りを行った。  そして二度目の「家庭料理大集合」は、一小学校区の、自主的な取り組みとして開催された。呼びかけたのは前年の「大集合」に参加した女性たち。会場となったのは児童数25名の宮城台小学校だ。ズラリとならんだ150皿の料理は、地区の男性が作ってくれた孟宗竹の取り皿でいただく。調理室で、ばあちゃんが子どもたちと一緒につくったあつあつのだんご汁と、豆乳プリンもふるまわれた。

 「毎日淡々と農業をやってきたけれど、新しい楽しみができました。今度はうちの庭でお花見もしてほしい」

 「染色体験のツアーのお客さんを公民館に呼んで、手料理でもてなしたら、とても喜ばれた。お祭りの時も人を呼んでみようか」

 食の見つめ直しが、地域の暮らし、生活文化の見つめ直しへとつながっていった。宮城地区では現在も毎年11月に、食の催しを行っている。地域の祭りとして食の文化祭が定着したのだ。

大分県中津江村 バス停朝市から、おばちゃんと青年団の文化祭へ

 中津江村にも元気なお母さんたちがいた。村内唯一の信号機横、栃原バスセンターの待合所で、朝市を行っている生活研究グループの女性たちだ。週に一度の「バス停朝市」には、旬の庭先野菜と漬物、パンや自家製の乾物などが集まる。店の常連さんは、バスを使って病院に通うお年寄り。週に一度の語らいを楽しみにやってくる。ここにも小さな食の文化祭があった。「お客さんにお茶を出してみませんか?」と提案したところ、試食用の漬物やおやつが並び、バス停はたちまちお茶飲み場になった。すると、人びとの滞在時間が増えたせいか、野菜や漬物が売れ出した。1日3000円だった売上げが、2万円台に届くようになった。運転手さんも降りてきてお茶を飲み、「キャベツ買い忘れたー」と、車窓から叫ぶおばちゃんに、バスの中まで走ってキャベツを届ける風景にみんなで大笑いした。  そして2003年10月、この生活研究グループと村の青年団が一緒になって、村の祭りで「ふるさと喫茶なかつえ茶屋」を催した。もち寄りのおやつと漬物を、津江茶と一緒にバイキング形式で味わってもらう喫茶店。おやつと漬物は、村内のおばちゃんたち。お店の内装やウエイター、ウエイトレスは青年団員。3時間で、250名の人びとが集う大盛況だった。竹田市のおばちゃんたちも、ゲスト出品で料理を持って来てくれた。

写真 青年団とおばちゃんたちをつなぐ環ができ、春には、村から依頼を受けて、道の駅リニューアル記念「中津江道の駅弁大会」を催した。「家にあるもの、山や川にあるもの、棚田の米でお弁当をつくって、売ってみませんか?」と呼びかけ、12組が参加。団員とおばちゃんたちとでお弁当の試作会を開き、味見をし、中身を検討し、お弁当に名前をつけて、値段をきめた。

 竹の器に入った「たけんぽ弁当」、「黒谷いなか弁当」、「ミョウガ寿司家族弁当」などの中津江村オリジナル弁当は、2時間で370食を完売。「つぎはいつすると?」「今度は何つくろうかな」楽しそうなおばちゃんたちと一緒に、心の底から笑い合った。

 広がる地元学、食の文化祭  「食の文化祭」は、食卓からその向こう側の暮らしや、地域を見つめる「食の地元学」。その精神を結城登美雄さんに学んだ私が、九州各地の地域づくりに関わる中で、またひとつ幸運な出会いがあった。水俣市の吉本哲郎さんに、水俣式地元学のフィールドワークを教えていただいた。外の人を聞き役にして集落を歩き、そこにあるもの…水のゆくえ、住まい方、庭先の有用植物、祭り、行事、食べ物などをたんねんに見ていく。聞き書きし、写真を撮って、1枚の絵地図にまとめる。そうすることで地域にあるものがわかり、地域の個性が見えてくる。食の背景には暮らしがあり、暮らしの舞台となる集落がある。その土地の人々が、その土地で豊かに生きていくために、自分たちの足下を自分たちで調べる試みだ。中津江村で、実家のある福岡県宗像市で、宮崎県高千穂町で、吉本さんに学び、地元の人々に学んだ。「新しいものとは、あるものと、あるものの新しい組み合わせ」(吉本さん)。地元学をきっかけに、地域で新しいものを作る力が生まれる。その現場に立ち会ってきた。

 宗像市では、「筑前玄海さかなまつり」をきっかけに、漁師と観光業者が、業種を越えて、地域での産業興しに取り組んだ。祭りでは、漁協婦人部や都市部の女性グループ、JAむなかた、市役所有志など様々な団体の人々が出店する「鐘崎ふれあい食堂」で、魚を使った家庭料理を提供した。また、地元学の手法を用いて、福岡教育大学の学生有志と、鐘崎の漁や生活文化、家庭料理を調べ、紹介するパネルを展示した。この取り組みは、05年の農水省等提唱「地域に根ざした食育コンクール」で奨励賞をいただくことにもなった。

 「鐘崎ふれあい食堂」でつないだ絆が、「むなかた食の文化祭」へと発展し、現在まで、宗像の食の文化祭は引き続き開催されている。今ではその名も「まち、村、海を結ぶ食の文化祭」だ。

■ 一過性のイベントではなく…。 経済も後からついてきた!

 食の文化祭(九州では家庭料理大集合として定着)は、催しそのものの裾野の広さ、わかりやすさ、何より「食を囲んで語り、みんなで食べることの楽しさ」から、九州各地を中心に全国50ヶ所以上で開催されている。昨今の「食育」「地産地消」の動きとも連動して、「直売所の販売促進のため」「農家レストランのメニュー開発のため」と、目的を持って大がかりに開催されることも多くなった。

 ただ、忘れてはいけないのは、これは外向きの人集めのイベントではなく、また料理コンクールでも、家庭料理の品評会でもないということだ。

 人は、昔から自ら耕し、作って食べてきた。家族のために狩りもしたし、漁もした。生きるために食べてきたということ。食は、買うものでなく、つくるもの。食卓は家族や地域の仲間と共に囲むもの。こんな当たり前のことが実現できにくくなっている今、私たちは身近な食から「暮らし」を見つめ直そう。商品ではなく、命を支える食に還ろう。そして昔からあった「地域の食卓を取り戻そう」というのが、この活動の目的である。

写真 07年2月に我がふるさとの宗像市で開催された「まち、村、海を結ぶ食の文化祭」は、手ぶらで試食に来るギャラリーにはご遠慮いただき、市内の農村・漁村の人々、そして海と畑と協力したいというまちの人々が、手料理を持ち寄って交流する50名ほどの集まりとなった。入場チケットは、1皿の家庭料理。大きくやる必要はない。まち、村、海がつながり、お互いに知り合い、学び合うことで、ふるさとの食文化を子どもたちに残すのだ。そんな筋の通った思いに支えられて実現した、つつましくも賑やかな集い。作ったもの同士が食べて、話して、教え合って…。それが家庭料理大集合。そこからすべてがはじまる。

 決してねらった訳ではないが、お母さんたちの知恵の持ち寄りからヒット商品も、生まれ、加工品として直売所で売られたり、農家レストランのメニューに加わったりしている。

■ 地域性を活かして発展。 大人の食育の場としても機能

写真写真 「みかんは、とても安いけれど、やっぱり作り続けてきた。その大切なみかんをもう一度みつめなおしたい」と「古賀のみかんの文化祭」を開催したのは、福岡県古賀市の農業女性グループのみなさん。

 福岡県築上町のみなさんは、「ここには、50年?100年のぬか床が今も守られている。この漬け物文化に光をあて、子どもたちに受け継ぎたい」と、「町民漬物博覧会」を開催。200種類の漬物を親子で囲み、わいわい試食した。また、家庭で受け継いできた大切なぬか床を、小学生を持つ若きお母さんに分け、作り方を伝える「ぬか床養子縁組」や、漬け物づくり教室など、持ち寄るだけでなく、時間をかけて、「漬物」と関わり、受け継ぐ活動を行った。食の文化祭は「大人の食育」の場であり、また親子で取り組む地域の食育の場としても役立っている。


■ 歩く、見る、聞く。そして伝える。 元気を運ぶのが私の仕事

 07年、3月4日。久しぶりに、東北、宮城県は旧鳴子町に向かった。「鳴子の米発表会『春の鄙(ひな)の祭り』」に学ぶためだ。

写真 古くからの湯治場、鳴子温泉。山あいの美しい景観、支え、助け合う暮らしを育んできたのは農業であり、米づくり。しかし、この4月から実施される国の農政改革で、所得補償の対象となる水田面積4ヘクタール以上の「担い手農家」は、この町の620軒の農家のうち、わずかに5軒。米の値段も、今は農家手取りが1俵1万3000円程度。中山間地は農業をあきらめなければならないのか。先祖から受け継いできた田んぼがなくなったら、この町はどうなるのか…。

 鳴子では、中山間地の低温地帯に適した米「東北181号」を試験栽培しながら、その米を使ったおむすびや米粉料理、菓子の試作、鳴子の技を活かした器作りなどに、業種や官民の隔たりを超えて地域ぐるみでとりくんだ。この日はその「鳴子の米プロジェクト」の成果発表会である。

 昔ながらの農家の暮らし、鳴子の食文化の再現コーナー、数々のお米料理に、心づくしの汁物。100種類1200個も用意されたおむすびは、みるみるうちになくなっていった。

 この10年で鳴子の農家は100軒減り、耕作放棄地も70ヘクタールに及んでいる.
しかしプロジェクトに参加した農家はうつむいてはいない。耕作放棄地の復活どころか「このまま行けば、昔のように新田開発をしなくてはなんねえな」と、冗談も飛び交うようになったという。

 会場には、食の文化祭同様、エプロン姿のお母さんの明るい笑顔と、農家のお父さんたちや、旅館の人々の誇らしい姿があった。何よりも、農が、米が、この催しの中心にあり、地域がひとつになっている様子に、涙が止まらなかった。

 「国が見捨てたからといって、私たちにはあきらめてはいけない、失ってはいけないことがある」と、プロジェクト総合プロデューサーである我が師、結城登美雄さんは言う。九州の中山間地も東北と状況は同じ。私は鳴子の人々の心意気を8年前同様に九州に持ち帰り、折があれば、ぜひ農家の人々にお話したいと考えている。?

 農家の娘に生まれ、農村で育ち、10年前に東京からUターンしたときもふるさとの農村に救われた私である。鍬のようにペンを持ち、書き伝えよう。村から村、村から町へ、人をつなぎ、人々の元気を届けよう。それが私の役割であるのだから。